ヨガはジャッジメントしない?する?

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ヨガはジャッジメントする?しない?

 

 

まえがき

 

まずは、アンケートにご参加してくれた皆様ありがとうございます。

先日、私のインスタで、この問題についてのアンケートを取ってみたところ『ヨガはジャッジメントしない』という否定派の支持率が83%という大多数を占める結果になりました。

コレには私もビックリしました 笑 

また、このアンケートには私の弟子達も返答をくれていた為、その弟子達の票数を差し引いて計算してみたところ、実質、157人中、93%の人達が『ヨガはジャッジメントしない!』という、驚きの統計結果が出ました。

 

ヨガはジャッジメントする?しない?

 

 

さて、まずは先立って、私のこの件に対する見解を先に述べておきましょう。

私の見解は、『ヨガはジャッジメントする』肯定派です。

その考え方の根拠や諸々については後ほど説明させてください。

では以下より、ジャッジメントしない派と、ジャッジメントする派、其々の考え方と、その歴史的な背景も考慮して深掘り考察していこうと思います。

 

 

ヨガはジャッジメントしない否定派 – その歴史的背景とその考察

 

では、ジャッジメントしない。否定派の方から深掘り考察してみましょう。

まず尺当たって、私はこの問題を考察するにあたり、ヨガはジャッジメンとしない。という考え方は、どこからきたのか? どこ由来なのか?という観点に基づいて、その思想の確かな裏付けとなるソースを求める為に、インド聖典、経典、叙事詩等の類いを片っ端から探ってみたのですが、そういった観念に関する痕跡を古代インドのブラフマイズムの範疇では、見つけ出すことができなかった事をここに報告しておきます

おそらくその理由としては、ヴエーダ聖典を頂点とする古代インド正統派である、ブラフマイズム系の瞑想の殆どが、集中を瞑想の核とするサマタ系瞑想であるからなのです。

そのインド六派哲学派の中で、瞑想の実践という概念を一手に引き受けている、ヨガの根本経典であるヨガスートラの中では、ジャッジメントに関して啓示されている、類義語的な言葉としての幾つかを挙げるとするならば、

”Viveka”, jñana“という二つの単語が挙げられます。そして、そのどちらともに、分別知、識別知といった様な、謂わば判断という訳の言葉になります。また、端的に説明すると、前出の二つの単語は共に非常に抽象度の高い概念であり、抽象度の低いジャッジメントとは、正確にいえばちょと違うのですが、どちらの概念共に、サマタ瞑想中に判断する為に用いられている概念になります。

つまり、サマタ瞑想中のジャッジメントは必要とされ、実際のところ判断しており、古代から現代に至るまでのインド正統六派哲学の中には、ヨガはジャッジメントしない。という思想形態に関する痕跡は皆無という結論に達しました。

しかしながら、ジャッジメントしない。という考えが、これだけ日本のヨガ界に浸透している訳ですから、何処かにその根源はあるのではないかと考え、更に探してみたところ..

私が辿り着いた、ジャッジしない派の考えの歴史的な背景には、私的な確信はあるにせよ、恐らくですが、上座仏教思想があり、更に特定するならば、ヴイパサナ瞑想(観想瞑想)の思想形態に多大な影響を受けているのではないか?と推測しています。

つまり、その思想形態のソースは、上座仏教由来ということになるのでしょう。

そして、そのヴイパサナ瞑想の考え方については以下にご紹介していきましょう。

 

 

ヴィパサナ瞑想についての解説とその考察

 

ヴィパサナ瞑想(観想瞑想)の考え方、それは、物事をありのままに観る。というものです。

私たちは物事を、ありのままにみていない。自分の価値観や偏見、思い込みで知らず知らずのうちに物事を見てしまっている。

そしてこの、ありのままに観るという観念の背景には、過小、過大評価の両方ともの不必要なジャッジメントを辞めることで、心の平安、安定が得られる、

そして、その状態こそがヨガであり、それにより、のびのびと人生を生きることができるということ。その物の見方を、自分にも、他者にも、すべてのものに対して行なっていくべきだ。という考え方です。

 

うん。どうでしょう? むつかしいですか..

もう少し抽象度を下げて、わかり易く例えを用いて説明してみましょう。

 

例えば、食卓の上にイチゴのショートケーキがあるとします。それを見た瞬間、どう思うでしょうか?

 ゲッ.. イチゴかよ

 おー!イチゴじゃーん!

①と②の人では同じものを見ているのにも関わらず、其々違う反応を示しています。

そして、その二人がイチゴケーキを見た時の心境は以下です。

①-A イチゴか.. (ガッカリ)

②-A おー! うまそう! (嬉しい)

この両者の結果からいえることは、どちら共に、ありのままにみていない。自分の価値観や過去の経験から偏見の目で、対象物を見ており、それは知らず知らずのうちにジャッジしており、結果、ありのままにみえていない。と考察します。

では、ありのままに観るとは如何いうことなのでしょう?

ありのままに観るという事は以下の③の様な見方になります。

 イチゴのショートケーキがある。

上記の見方であれば、

③-A ありのまま見ておりココロは動じない。(見ている対象物を描写しているだけに留まり、無感情をキープできる)

それではより良い理解のために更に解説を入れてゆきましょう。

前出の①と②の人のように、心にフィルターやバイアスが掛かった見方(心に偏見を持った見方)をした場合、ココロ、感情は動くのです。

その両者の心の動きは、 ①-A ガッカリ ②-A 嬉しい といったように、

ケーキを見ることにより、気分が下がろうが、上がろうが、両者共にココロの感情は対象に揺り動かされ大きく波打ってっしまう。という様な見解をヴァイパサナ瞑想ではしていきます。

簡単に説明するならば..  ①と②の人は、なんらかの偏見をココロに持ち見ていた。という説明ができます。

そして、大事なことは瞑想していく上に於いて、心が波打っている(感情が湧き上がる)と瞑想ができないということなのです。

心には感情無く、落ち着いて静まりかえっていないことには瞑想はできない。ということです。

あるがままにみる。という物の見方は、瞑想をする為の物の見方、即ち、瞑想をできるようにする為の見方のテクニックなのです。

そして、私たちの日常にもこの、物事をありのままに観る。というメソッドを各自が取り入れ、習慣化していくことにより、偏見の目を持ち対象物となる、あらゆる人や物に対しての誤ったジャッジメントをしなくて済む。 

すなわち、不要なジャッジメントをしなくなる事により、自身の感情は動かされず、安定した心の状態を保ち日常をのびのびと暮らすことができるようになる。ということなのです。

 

さて、ヴァイパサナ瞑想についての説明が終わったところで、私自身の見解を述べておこうと思います。

人の心の根本的な振る舞いや、その心理のシステムを解明している、卓越した瞑想のメソッドとして、ヴィパサナ瞑想法は素晴らしく、また、オフザマットのヨガ。すなわち、常に安定した心を保つ為の日常でのヨガの心得として素晴らしい叡智のメソッドでもあると思います。

この、ヴィパサナ瞑想の様に、ヨガ=瞑想という観点や、日常でのオフザマットのヨガという観点で見た場合、ヨガはジャッジメントしない(否定派)という問いに対して、

YES!! 賛成!ジャッジメントしない!

という私の回答もあります。

しかしながら、現代ヨガ=運動療法(アサナ)も含まれているよ。という観点、オンザマットのヨガという観点で見た場合..  ヨガはジャッジメントしない。という問いに対して、

いや、私はジャッジメントします。なぜなら、そうせざるおえない状況だから。

という回答をも併せ持っている。というのが私の個人的な見解なのです。

さて、次章からは、そのあたりの私の考えについての詳しい解説と、ヨガはジャッジメントする(肯定派)についての深掘り考察をしていきましょう。

 

 

肯定派・ヨガはジャッジメントする – 肯定派 – その歴史的背景と考察

 

まず大前提として、私はこの問題について、現代ヨガという私達が立っている場の背景を考慮するべきなのではないか。と考えています。

ヨガ=瞑想という概念の古代のヨガではなく、

現在、全世界中で行なわれているヨガの殆どは、アサナを主体とした運動療法の側面を持つハタヨガです。 

恐らく、このブログを見てくれている方々も、ほぼ全員ハタヨギだと思われます。  

また、カラダを動かすあらゆる運動には、ケガは付きものです。

そしてそのことはヨガも然りなのです。

 

では、以下の画像をご覧ください。

 

後屈アサナバックベンド

 

この画像は私が大ファンであるプロ野球、オリックスの山本由伸選手の後屈写真です。

一般人なら、この画像をパッと見た瞬間、『すご〜い!柔らかーい!』というのではないでしょうか?

しかしながら、ヨガ歴28年のヨギとしての私の見立ては以下の様になります。

『腰、危険!』

これは、ポーズをパッと見た瞬時の判断/ジャッジメント、私の見解です。

(もちろん細かい他の注意点は多々有りますが、そこはさておき)

そのジャッジメントの判断の根底には常にアサナアライメントがありますが、まず、ヨガを人に伝える身として基本的な最重要点として、『怪我させない』ということを考え方のベースとして、持っていなければならないことにあります。

また、この画像のバックベント(後屈)へのヨガ技術的な側面に関する私の個人的な見解は、危険度MAXの禁忌事項レベルのミスアライメントのアサナである。(怪我をする、正しくないポーズの形)という見解になります。

もしこのまま、山本選手が毎日、この形で後屈を取るのであれば、腰を壊す可能性は極めて高いでしょう。ましてや、彼の様に、身体が柔らかければ柔らかい程、その危険度は増すのです。

(尚、山本選手はこのポーズを行う際、どの様に改善してゆけば良いのか?ということについての技術的な指導法については、サブジェクトから話が逸れる為、今回は割合させて頂きましょう)

ヨガ講師として生徒や自身に怪我させない様に指導する為には、禁忌事項についての瞬時の判断 / ジャッジメントが必須になります

 

座って行う瞑想ヨガの場合、『ヨガはジャッジメントしない』と言う分には、怪我も無いですし、実際、瞑想状態に実質的にも入いる為にはそうあるべきでしょう。

また、日常でのオフザマットのヨガという観点で見た場合も、不要なジャッジメントをせず、心穏やかに日常を暮らす為の実践法として非常に有効的である。と私は考えています。

しかし、現代の運動療法の側面を持つアサナ主体のヨガシーンに於いては、『ヨガはジャッジメントしない』と言い切ることは、未然の怪我を防ぐ。という観点から見た場合、もはやありえないことなのではないでしょうか。

それは、講師だけではなく、ヨガプラクティショナーご自身も、自分の取られているアサナについて適切なジャッジメントを行うことで、アサナの上達や未然な怪我を防ぐことができるのです。

 

山本選手が今にも怪我してしまいそうなミスアライメントで、後屈しているその真横で、講師は遠い目をして天を仰ぎ..

『山本君がバックベンドをしておる』と、ヴィパサナ的に現象を描写(サティ)してつぶやいている場合では無いのです。

彼が行なっている、そのヨガを、ありのままに観てはおらず、盲目的に何でもかんでも『ジャッジメントしない』と言っている。のではないのでしょうか?

そうなのです。彼の怪我を未然に防ぐ為には、刹那にジャッジメントせざるおえないのです。

 

また、あなたがもし、『ヨガはジャッジメントしない』と言いながら、自分や生徒のアサナをアジャストメント(ポーズの調整、修正)しているのであれば、それは矛盾しています

なぜなら、良い。悪い。のジャッジメント無くして、アサナのアジャストメントが行われることは無いからです。

こうした方が更に良い。
これはカラダを壊すから悪い

その様な思考の判断(ジャッジメント)の後、アサナのアジャストメントは行われているのです。

 

アサナジャッジメント▶︎アサナアジャストメント

 

この様に、必ず先にジャッジメント / 判断 有りきの、アジャストメントなのです。

良い。悪いの判断無くして、一体何をどう、そしてどの様に、アサナをアジャストメントできるのでしょうか?

 

また、ジャッジメント無くして、アサナの改善、向上は無いのです。

なぜなら、アサナ改善の道は、以下の様な順路を辿るからです。

 

アサナジャッジメント▶︎アサナアジャストメント▶︎アサナ改善、向上

 

またもし、ヨガプラクティショナーであるあなたが、ヨガ講師に前出の山本選手の画像をみせた際、『柔らかいねー!』という様な見解だけを述べられた場合..  

残念ですが、その講師の元は生徒としては去られる方が賢明であることもお伝えしておきましょう。

厳しい事を言う様ですが、理由はいうまでもなく、人にヨガを教えるという行為に対して、明らかに正しい見立てが出来ておらず、それは技術力が足りていないからであり、場合によっては生徒のアナタは怪我を負ってしまう可能性も高いからです。

 

 

ヨガ根本経典 / ヨガスートラからこの問題を紐解く

 

ヨガはジャッジメントしない?する?

さて、最後にヨガの権威書である、根本経典 / ヨガスートラを持ち出し、ヨガの神様である聖パタンジャリが解いた、アシュタンガ / 八支則 についての句を引用して、この問題についての見解を求めてみようと思います。

まずは私の注訳からどうぞ。

 

 योगाङ्गानुष्ठानादशुद्धिक्षये     ज्ञानदीप्तिराविवेकख्यातेः॥२८॥

 yoganga anusthanat  asuddhiksaye jñanadiptih  avivekakhyateh.

 

 ヨガの実践により

 不純性が破壊され

 叡智の光が意識を照らし

 洞察力と識別力を兼ね備えた

 分別知へと到達する。

 
 ヨガスートラ・228

 

 

さて、どうでしょう? ちょと内容、難しいでしょうか?

それでは、この一節の理解の為に、更に咀嚼した私の注訳を以下に入れてみましょう。

 

この格言は、ヨガの実践を通した変容力を示唆しており、その変容は2種在ると述べられています。

▫︎ 1つ目は【浄化のプロセス】

▫︎ 2つ目は【知識のプロセス】

 

▫︎ 1つ目の浄化のプロセスは

カラダとココロの浄化作用を啓示しています。

▫︎ 2つ目の知識のプロセスは

浄化された心は叡智の光により知性が増し、偏見や先入観で判断するのでは無く、洞察力と識別力を持って現実と虚構を区別できる様になり、最終的には分別知 / jñana が備わる。ということを啓示しています。

 

さて、どうでしょう?

このヨガの根本経典には、『ヨガを行うことで最終的には、分別知 (jñana) が備わる(白黒分別できる)』と、この様に、しっかりと明記されています。

即ち、『ヨガを行なうことで物事を、キチンとジャッジメント(分別)できる能力が備わる様になる』と、聖パタンジャリはヨガの根本経典でこの様に、この問題について規定していたのです。

そして、その分別知とは、場面や場合によっては、敢えてジャッジメントしない。という選択肢も含まれる、叡智による真のジャッジメントなのです。

 

 

総論、結論

 

ヨガはジャッジメントしない?する?

私はこの問題について、色々と資料を調べたり、聞き込み調査をしたり、それらを基に深掘り考察を重ねて行く中で、私的に極力、客観視して物事を捉えようとしてみた結果、気がついたこととして

『ヨガはジャッジメントする』と考えている人たちに比べ、『ヨガはジャッジメントしない』と考えている方々のその大多数は、思考の方向性がニューラルではなく、どちらかというと、

『ヨガは絶対にジャッジしない』という極端な方向に振り切ってしまわれている方が多いということに気がついたのです。

(根本的に、ヨガはジャッジしない。という否定系の概念を受け入れてしまっているというコト自体が、おかしな事であり、それは行き着くところ思考の中で不協和音を奏でる因になるのである)

 

その中で、ヨガ界隈において多くの人々が『ヨガはジャッジメントしない』といっているその概念とは、実質的に観て非常に曖昧な概念なのです。

なぜならば、実際のヨガシーンにおいて、人々はジャッジメントしており、そこに矛盾が生じているということ。

例としては、まず、『ヨガをジャッジメントしない』と言った瞬間からそれは、ジャッジメントしている。という矛盾があるということ。

(否定系の概念を受け入れたが為の矛盾、思考撹乱の因)

次に、現実の現代のヨガシーンにおけるアサナを主体とした運動療法の側面を持つヨガを行う中で、適切なジャッジメントや判断が不可欠であるシーンも多々あり、

また、実際のところ、自他共のアサナアジャストメントを施す際などに、人々は必ずジャッジメントをしているという矛盾があること。

そのことは、オンザマットで自身が行なっている、そのヨガを、ありのままに観てはおらず、知性なく盲目的に何でもかんでも『ジャッジしない』と言っているに過ぎないのです。

ココロを静めようとして、おおらかでより良き人生を歩もうとして、一旦、ジャッジメントを手放したものの..  逆に、『ジャッジメントしない』という概念に固執するあまり、それは、自身の洞察の目を曇らす、先入観や偏見へと忽ち変わり

オンザマットで自身が行うヨガをありのままに観ることはなく、知性なく無意識的にジャッジメントを下し、そのことにより認識無く、ココロに大きな矛盾を抱えることとなり、その結果、前より余計にヨガライフで生き辛くなってしまう。という、

その様は、教義の曲解たるや甚だしく、まるで、ミイラ取りがミイラになる様なモノであり、本末転倒ともいえるでしょう。

またそれに非常に良く似た概念で、『ヨガは人と比べない』というヨガ界隈で盲目的に支持されている考え方がありますが、その言葉に関しての私の見解も、右に同じく同じ結論になるのです。

また、それらのこととは別に、私たちの日常やオフザマットのヨガ、そして、瞑想などを行う際、『ヨガはジャッジメントしない』という概念を持ち実践的に行うことは、ココロの作用を静寂に保つということに非常に効果が高いという、その様な素晴らしい側面も在るということを踏まえて、

 

私が出したこの問題への結論、回答は..

ジャッジする、ジャッジしない。そのどちらの概念共に過度に強調することの無い様に、極端に振り切ることのない様に、

常に客観的でバランスの取れたフラットな視点を持ち、場面や場合によりその、ジャッジする、ジャッジしない。という判断さえも洞察の目を凝らし正しく分別して、必要に応じ知性を用いて正しくジャッジしていくことがヨギとして、ベストな立ち位置なのではないか?

という結論に至ったのです。

 

『ヨガはジャッジメントしない』という概念の源となる、ヴィパサナが説いている事とは、盲目的に何でもかんでも『ジャッジしない』という事では無く、知性を用いて偏りのある思考を正し、偏見や思い込みを無くし、物事をありのままに観る事で、正しくジャッジメントできる様になる。

と説いているのです。

素晴らしい教えなのです。

 

行き着く所、ヴィパサナ、ヨガスートラ共に、正しいジャッジメントのあり方について説いているのです。

ヴィパサナ : 物事をありのままに観る。

ヨガスートラ : 分別知

 

そのことは

同じ山を違う方向から別々に登り、

同じ目的地の頂へと到着する様として

私の目には映るのです。

 

Om

坂東イッキ

 

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画像は2011年、ヴァイクンタヨガ沖縄にて撮影

 

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