ジャッジメントというヨガシーンの厄介な言葉

神宮球場ナイトスタジアムヨガに講師出演している坂東イッキ

ジャッジメントというヨガシーンの厄介な言葉

 

 

はじめに

 

読者の方から、『文章の内容が難し過ぎて理解できない』とのお便りを頂いた為、その対応策として、

『この問題についてのまとめ』と『解決策』を掲示致しますので、まずはその項目をお読み頂いてから、本文を見て頂くことで、この問題についての理解が深まると思われます。

では、以下よりどうぞ

 

今回の問題についてのまとめ

 

ジャッジメントという言葉の背景には、ネイティヴにとって、旧約聖書由来の、重苦しいイメージが埋まっており、それはあらゆる英語の単語の中でも特殊なものである為、異文化のバックグラウンドについての理解が必要ということ。

そして、ジャッジメントという言葉の背後にネイティヴが観るものとは、『彼らの神』であり、彼らは、その神に対して、畏怖と敬愛の入り混じるディープで重い感情を抱いており、それ故にジャッジメントという言葉は、彼らにとって、曰く付きの特別な言葉となっているのです。

『ヨガはジャッジメントしない』という言葉の言い出しっぺ は、インド人では無く、ネイティヴであり、また、彼ら自身も『静粛なヨガのシーンに於いてヨガはジャッジメントしない』ということなど、重々承知の事実であるのにも関わらず、

わざわざ、その事を持ち出し口にしているという、ネイティヴの心境として、『自身の神に対するアンチテーゼ的な意味合い』も含んでいるということ。そしてそれは、彼らの宗教観や言葉の背景が見えない日本人には理解し難きモノであるということ。

③『ヨガはジャッジメントしない』という意味合いは、ネイティヴの『ヨガは非難しない』という意味であるのに対して、日本人は『ヨガは判断しない』と捉えており、その事を原因として以下の様な問題が生じているということ。

実際のヨガシーンに於いては、アサナのアジャストをする際など、判断を必要とする場面は多々あり、

 

さて、ここからが、
この問題の一番の焦点になるのであるが、

実際に日本人はヨガのシーンに於いて、『ジャッジメントしない』と言いながら..

ジャッジメント後(判断後)アジャストメント(調整、修正)をしてしまっている為『その言動は矛盾している』ということと、

『そのような日本人ヨギは全体の約90%いる』ということ、

『言動に矛盾を抱えたまま、ヨガを行う。ヨガを教える』という、そのチグハグさこそ、現在の日本のヨガシーンに於ける深刻な問題と言えるのではないか?ということ。

 

対応策

 

① ネイティヴがヨガシーンに於いて、自他のアサナに関する判断を行う際に『判断』という意味で使用する名詞は “Judgement”(ジャッジメント)という言葉では無く、

”assessment” (アセスメント)という言葉であり、

そして、彼等にとって、ヨガのシーンに於いて『判断』は必要不可欠であり、彼等は自他共のアサナを調整、修正する前に必ず、アセスメント(判断)を行なっているのです。

即ち、自他のアサナを判断する際は、曰く付きの重い言葉の概念を持つジャッジメントでは無く、アセスメントという言葉を用いれば良いのです。

そして、

人とアサナを比べ、できない自分を発見して、自身をジャッジメントしている人がいたならば..

『ヨガはジャッジメント(判断、非難)しない!』という重くてディープな言葉を持ち出して来ても、

『落ち込んだその人のココロは何も変わらない』

それよりは、

『研究心と探求心、持つとイイよ』🍃

と、シンプルに自他に伝えてあげることこそナイスなのです🍃

なぜならば、
探求心、自尊心をココロに持つことで、

『ココロの振る舞いのベクトルは、ネガティブ方向に向くことなど無く』

『なぜできないのだろう?どうしたらできるのだろう?』という

『ポジティブな思考から芽生えたポジティブな行動を取り、改善、進歩の道を進むことができる様になります』

『ポジティブな方向にココロを向けてあげることこそが、ナイスなのです』🍃

 

 

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本文

 

以前、私はこのヨガ考察ブログにて ヨガはジャッジメントする?しない? というトピックを取り扱ったことがあります。

この、ヨガシーンでよく使われる『ジャッジメント』という言葉の概念について、私達、日本人とネイティヴとでは、実は受け取り方のニュアンスが異なっているのです。

 

私達のジャッジメントという言葉の意味合いとしては、日本のどの英和辞典を観ても『判断』が一番目の解釈であり、二番目に『判決、審判』という意味の捉え方をしている方が、ほぼ100%に近いと思われます。

ですから、ジャッジメント『判断』という言葉から受け取る印象というものは、日本人なら以下の様になるはずなのです。

 

ポジティブ 50%

ネガティヴ 50%

 

上記の様に、私達日本人にとって、『判断』という言葉に対してポジorネガのイメージは無くフラットですよね?

また、『判決、審判』という言葉に対しても 5対5 のイーヴン、もしくは、4対6 止まりでしょう。

 

しかしながら、ネイティヴがジャッジメントという言葉から受け取る印象というものは、私達日本人とは違い以下の様なものになります。

 

ポジティヴ 10-20%

ネガティヴ 80-90%

 

ネイティヴがジャッジメントという言葉から受け取るイメージとは、実は超悪いものなのです。

 

それは一体何故なのか?というと

彼等はジャッジメントの背後にあるものを見ているのです。

 

 

神を観るのです。

 

 

そのことをわかりやすく例えるならば、

時代劇、水戸黄門のドラマの後半で、角さんがお決まりの、葵の御紋の紋所を懐から出し、悪人に示すシーンがありますが、

悪人達は、それを見て、即座に土下座し平伏すではないですか。 

あれは、葵の御紋のマークが怖いわけでは無くて、その背後にある徳川家を恐れている訳であり、その権力に怯えて土下座しているのですよね。

その事と同じ様に、ネイティヴは、ジャッジメントという言葉を見た途端、否応なしにその背後に彼等の神を見てネガティヴな気持ちになるのです。

 

神様を見て恐れるの??

 

日本人で神様が怖い人は居ないでしょう。

しかしながら、彼等の神は私達の八百の神とは違い、一神教の歪んだ性格神であり、絶対神。恐ろしいのです。

彼等の社会や文化のベースはキリスト教であり、50年前ぐらいまでは毎週日曜日になると教会に必ずみんな行っていたのです。

現在では『僕には宗教は関係ないね』と言っている人も多くいますが、キリスト教の考え方や教えは、家庭内や文化、社会の中で教育や風習などを通して、現在でも人々の心に深く彫り込まれており、

その事は、現代、日本に於ける神社仏閣に対する私達の関わり方と同じであるのです。

それは、かつて宗教のあった位置に資本主義というイデオロギーが設置され、過去にパラダイムシフトが起こった結果であるにも関わらず、また、熱心かどうかは人それぞれであるのだが、現代の私たちは資本主義教信者であるにも関わらず、各民族が持つ文化的な宗教観は私達に、未だ影響を及ぼし続けているのです。

 

そして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じである。ということ。

なぜならば、ムスリムの聖書はコーランと旧約であり、クリスチャニティの聖書は新訳と旧約であり、ジューイッシュの聖書は旧約聖書だからなのです。

 

即ち、それはユダヤの神です。

同じ神なのです。

 

そして、それらの3つの世界宗教に関わる人々にとって ”covenant”(契約)と”Judgment” (判断、審判)という二つの言葉は他の言葉とは違い、非常に複雑な色付きのディープな意味合いを持っているのです。

 

また、それら3つの民の神というものへの感情は、畏怖と敬愛の入り混じるディープで重いもの。

そして、その感情は我々日本人には到底、到底理解できないものなのです。

 

そのことについて少しお話ししてみましょう。

 

終戦迄の天皇は神でした。

 

その当時の一般的な日本人の天皇(神)に対する感情は、敬愛のみで、畏怖というものは無かった筈です。

マッカーサーは、その様をみて自分達の神への想いとの違いを知り、さぞかし驚いたかと思います。

しかしながら、戦後70年が過た現在に於いて、天皇家の菊の紋章を観ても、感情の波が揺れない人も多いことでしょう。特に若い世代の方々は。

その事は、GHQによる日本統治の大成功を示唆しているのです。

 

洗脳とはその様なものなのです。

 

私は右翼でも左翼でも無いのです。

 

客観的視点に立ち、そこから観える景色をボタニックアートを緻密に描くかの如く、描写しているに過ぎないのです。

 

 

さて、話をキリスト教の神に戻しますが、キリスト教では、旧訳と新訳という2種類の聖書を用います。その中で、旧約聖書に出てくる彼等の神は、『人と契約し』その契約を破った場合は『ジャッジメントし刑罰を下す』という話が何度も何度も出てくるのです。

皆さんもご存知の、まず最初のジャッジメントとして、エデンの園にいたエイダムとエヴァは知恵の実を食べ、ブチ切れた神により地上に追いやられ、ノアの方舟ではブチ切れた神により大洪水。

バベルの塔では、ブチ切れた神に多言語にされ隣人同士が互いに意思疎通できなくなり、仕方なくその地を離れ散り散りバラバラに、欲に塗れた生活を送るソドムとゴモラの民と街は、ブチ切れた神により壊滅された。という様に、神は人類をジャッジメントしまくるその度に天罰を与えて来ているのです。

ですから、彼等にとって、神より天罰を与えら続けて来た過去の経験とは、正にトラウマ以外の何ものでも無いのです。

また、過去のトラウマだけでは無く、皆さんもご存知の『最後の審判(ジャッジメント)』が、いつぞやの未来において、彼らを必ず待ち受けているのです。

最後の審判とは、

世界の終末に、神の子であるキリストが天使と共に再来し、滅んでしまった人類を甦らせます。そして、全能の神が降臨するのです。神は全人類を審判(ジャッジメント)に掛け、神の法で全人類を裁き(ジャッジメント)、天国 or 地獄に振り分けるというものです。

この事は、現在でも殆どのネイティヴが信じており、

それ故に、ネイティヴは、ジャッジメントという言葉を知覚認識した瞬間、パブロフの犬の如く、パラメータは作動し、ネガティヴなイメージで、ココロを重広く染めてしまうのです。

 

 

また、このことを、ネイティヴに問いただしても、恐らく、最初は、その様に自身がその言葉に反応してしまっていることについて『気がつかない事が大半なのです』(数人のネイティヴの友人で実証済み)なぜならば、それは、思考の偏りなのですから、偏見は自分自身でなかなか気付けるものではなく、そのことから、パラダイムシフトを起こすことが困難となるのです。

そして、ここまで私が伝えて来た様に、このことは、ネイティヴにとって非常にディープ過ぎる問題であり、この話しをネイティヴとされる場合、その方との信頼関係が築かれていない場合は、この話はしない方が賢明です。

もし、信頼関係が有っても、ほぼ100%のネイティヴが、話の内容を理解した途端に顔色を曇らせる様なお話しなのです。

ですから、この話を彼らにする際には、信頼関係が構築されている事は大前提ですし、もし話される場合も、キチンと最後まで理論立てて話せる自信があることと、

時間をかけて、今、貴方に私が伝えている様に、彼等に順よく話して行かないと、その偏見は解けないものなのです。

 

 

闇に知性の光を当てる。

 

 

洗脳を解くとはこの事です。

 

 

ジャッジメントという言葉は、まず前提として『神と人との約束、契約が有り』そして約束、契約を 守ったor 破った。という審判にかけられ、神がその善悪を裁く際、全能の神の絶対の法(ルール)にて正否を下す。というネイティヴの中での承知の事実があるという事を、まず理解しておいて下さい。

そして、法廷で裁判長がジャッジメントする際は、法に従っているのでオッケーですし、競技などでジャッジメントする際には、敵味方共にルールに従って(契約をお互い交わして)その基準の下でジャッジメントしており、その場合はオッケーなのです。

 

しかしながら、なんの契約も無い人同士の間でジャッジメントする。という事は、彼等にとってみればルールに従っていない為、その事は『人を非難する』という、とてもネガティヴな意味合いになるのです。

 

また、その際、ジャッジメントされたネイティヴは

『どこの法や基準で貴方は私を裁こうとしているの? 貴方は自分のこと神とでも思ってるの?』

と、おおよその日本人が思いつきもしない様なことを思うのです。

 

またもし、ヨガのシーンに於いてネイティヴ自身が、自分自身に対して『ジャッジメント』(非難)をしている。という状態を指している場合。

そのケースは例えば、『人とアサナを比べ、できない自分を発見して、自身をジャッジメントしている』のでしょうから、

 

そのケースこそ、正に『ヨガはジャッジメント(非難)しない』なのですが…

 

その様な時は『研究心』『探究心』をココロに持つことで、『ココロの振る舞いのベクトルは、ネガティブ方向に向くことなど無く』

『なぜできないのだろう?どうしたらできるのだろう?』という『ポジティブな思考から芽生えたポジティブな行動を取り、改善、進歩の道を進むことができる様になります』

 

ですから、このケースの問題は、前出の『できない自分を発見した状態』で、

『ヨガはジャッジメント(非難)しない!』という重くてディープな言葉を持ち出して来ても、

 

『落ち込んだココロは何も変わらない』

 

それよりは、

 

『研究心と探求心、持つとイイよ』

 

とシンプルに伝えてあげるのが、良いのではないでしょうか?

 

 

アメリカの法廷においては、裁判官が聖書に手を置いて神に誓うシーンが映画などで良くありますよね?

あれは、法廷で証言をする全ての人が、私は嘘はつきません!私は真実を話します!と神に誓っているのです。そして、ユダヤの法廷でも同じ様に聖書を手に取り、神に誓いの言葉を唱えますし、イスラム国ではコーランに手を置き、神に誓いを立てているのです。それは完全なる儀式であり、彼等の法廷には神がいるのです。その事こそ、ジャッジメントという言葉の曰く付きの重さを示唆しているのです。

 

そして、彼等の神に法廷で誓う人は、全人類の約60%なのです。

 

人類の半数以上の約6割が、その神を信仰しているのです

 

私達日本人の法廷に神は居ませんし、誓いも無いのです。

 

同じ法廷でも重さが違うように、

ジャッジメントという言葉の重さも異なるのです。

 

 

さて、基本的なお話は終わりました。

 

 

『ヨガはジャッジメントしない!』

 

という、そのセリフは、ヨガを産み出した多神教のインド人では無く、

 

『ネイティヴ達がヨガのシーンで言い出した言葉』です。

 

そして、ヨガのシーンに於いて、人同士は、なんの契約も交わしておらず、ルールも無い為、ヨガはジャッジメントする。という事は、人を非難している事になるのです。

 

しかし、よくよく考えてみて下さい。

 

ヨガのシーンで、貴方は人を非難しますか? 

 

する訳がないのです。

 

 

静粛なヨガのシーンに於いて、『ヨガはジャッジメント(非難)しない』ということは、まともな倫理道徳観の備わった人であれば、人種が違えど当たり前の事であり、

勿論、ネイティヴもそのことは重々承知しているのですが、しかしながら、その様な最初から分かりきった事を、わざわざヨガのシーンに於いて声高らかに言う。

しかもこれだけ世界中のヨガシーンに広がっている偏見。という事は、

客観的に見て、それは、彼等が彼等の神へ向けたアンチテーゼ的な意味合いも含まれており、それは、中2病的なわかり切った反抗でもあり、もう一つ考え方をヒネれば、ブラックジョークとしか捉え用の無いさまなのです。

 

そして、現在の世界的なヨガブームはインド人が創ったものでは無いのです。

 

それは、世界で約60%いる『ジャッジメント』という言葉に偏見を持つ民が創ったのです。

 

 

そして、ほとんどの私達日本人ヨギ達は西洋から出て来た『ヨガはジャッジメントしない!』という彼等の神に対するアンチテーゼとは知ることもなく、考えることなく。

英和辞書の字面のまま『判断』と受け取っているにも関わらず、

 

『ヨガはジャッジメント(判断)しない!』

 

と、声高らかに戸惑いも無く、自ら思考を止め、人に流され、知性無く言い、

そして、『判断しない』と、その口で言ったにも関わらず、自他共にアサナをアジャストメント(調整、修正)しているのです。

 

良い or 悪い。の判断無くして、一体何をどう、そしてどの様に、アサナをアジャストメントできるのでしょうか?

 

 

そして、その自身の矛盾し切った言動に対して、なんとも思ってないのは、知性のカケラも無い様なのです。

 

さて、ここに私と一緒に立ち、冷静に日本のヨガのシーンで行われている、このバカバカしい様を見てごらんなさい。

 

日本のヨガシーンに於いて、講師生徒問わず、90パーセント以上の人が『ヨガはジャッジメントしない!』と言っているのです。

それは、中2病の西洋人に振り回されているだけなのです。

 

そして、そのことは、私達日本人だけではなく、英語を喋り理解している筈の、インド人でさえ『ヨガはジャッジメントしない!』という人がいるという事実。スワミー(僧侶)でさえ、その様に言う人も居るという始末。

ヒンドゥー教徒であり、西洋人より、日本人よりも神との距離が近い筈のインド人でさえ、その様な事を言う人がいるという事実。

なぜならば『英語を喋り理解することができる』ということと、『その言葉の背景を理解する』ということは全く別のことであり、自ら考える事無く、周りに流されている事にすら気が付かない、知性無き者には到底、この気づきは無いのです。

 

その様なインド人達は日本人と同じく、約束の民のバイアスに振り回されているに過ぎないのです。

 

 

さて、因みに、ネイティヴがヨガシーンに於いて、自他のアサナに関する判断を行う際に『判断』という意味で使用する名詞は “Judgement”(ジャッジメント)という言葉では無く、

 

assessment” (アセスメント)という言葉なのです。

 

そして、彼等にとって、ヨガのシーンに於いて『判断』は必要不可欠であり、彼等は自他共のアサナを調整、修正する前に必ず、アセスメント(判断)を行なっているのです。

 

即ち、自他のアサナを判断する際は、曰く付きの重い言葉のジャッジメントでは無く、アセスメントという言葉を用いれば良いのです。

 

 

そして、

 

 

人とアサナを比べ、できない自分を発見して、自身をジャッジメントしている人がいたならば..

 

『ヨガはジャッジメント(判断、非難)しない!』という重くてディープな言葉を持ち出して来ても、

 

『落ち込んだその人のココロは何も変わらない』

 

 

それよりは、

 

 

『研究心と探求心、持つとイイよ』

 

とシンプルに自他に伝えてあげることで、

 

 

『ポジティブな方向にココロを向けてあげることが、ナイスなのです』

 

 

 

 

 

最後に私から

あなたにお伝えしておきたいことがあります。

 

 

私は、ネイティヴを非難しているわけでは無く。

インド人を非難しているわけでも無く、

あなたを非難しているわけでも無く、

そして、右翼でも左翼でも無いのです。

 

 

28年間のヨガ修練を通して

常に客観的視点に立ち、そこから観える景色を眺め、

 

 

無秩序で混乱した現代ヨガというものが観える為、

 

 

私と同じく

ヨガ愛好者であるあなたを

私の立っている場所にお招きしたのであり、

 

 

そこから観える景色

現代ヨガを一緒に眺めていただくことで、

 

 

 

あなたが

なにかを感じることもあるのではないか?

 

 

 

と、思った次第なのです。

 

 

 

 

 

 

 

さて、リンゴのお味はいかがでしたか?

 

 

 

 

 

さあ、そろそろ目を覚ましますか?

 

 

 

 

 

あなたの

 

 

 

 

 

 

 

 

洗脳は解けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

Om

 

坂東イッキ

 

 

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画像は2019年、神宮球場ナイトスタジアムヨガにて、お集まりの約1,000名のヨギ達と

 

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