ヤマニヤマは善悪のモノサシ

ヤマニヤマ

ヤマニヤマは善悪のモノサシ

 

まえがき

 

私の先日のブログ投稿記事 : それはその源から来たのですにて、ヨガの根本経典である聖パタンジャリのヨガスートラ、アシュタンガ(八支則)のヤマ、ニヤマを日常生活で行じることで、チッタ(思考、心の作用)の浄化が可能になります。

という文章を書いたのですが、おかげさまで反響よく、『ちょうど色々悩んでたタイミングだったから、見れて良かった』『ヤマニヤマやってみようかな』と多くの方からメールを頂きまして、私も嬉しく思っていたのですが..

数名の方から、『日常でヤマ、ニヤマを行じることが辛い。どうしたら良いのか?』

とのメールを頂き、なるほどそれでは。という事で、アフターサービス的に緊急でご対処させて頂こうと筆を取った次第なのです。

 

✳︎ ここまでの話の流れがわからない方もいらっしゃると思いますので、以下に関連記事へのリンクを掲示します。より良い理解の為、番号順にご一読くださいませ。

① ヨガを用いたココロの浄化の重要性 : 問題提起
 それはその源から来たのです

 

ではまず、先立って、私のこの問題に対する回答を以下にスバリお伝えいたしょう。

 

結論

 

結論として、社会の中で、ヤマニヤマの行を行うことは時に非常に難しく感じることもあります。

行じる際のポイントとして、完璧に行を行い切ろうとすると難しいのであり、

完璧を目指すことが目標では無く、

あくまでも、思考やココロの浄化が目標なのです。

まずは、自分のできる範囲内で行い、徐々に範囲を拡げて行かれると無理なく行えます。

しかし、ヤマニヤマの行の持つ、心や思考への浄化の効果は抜群であり、

時には自分自身や相手を容認し、焦らずに少しづつ進めて行くことで、充分その恩恵を授かることもできるのです。

 

私たちが無意識的に行う判断決定のカラクリ

 

さて、ここからは、今回の問題について、その回答を求めるための鍵となる概念を学んでいきます。

それは、私たちが普段、無意識的に行なっている『判断、決定』が、どのような行程でおこなわれてきているのか?というそのカラクリについて、例題を基に、分析、解明していきます。

その仕組みを理解することで、客観視点を持つことができ、より円滑にヤマニヤマを用いたココロの浄化を行うことも可能になります。

 

今回のお話に於けるモノサシの定義

 

ヤマ、ニヤマは、『ヨギの倫理/道徳の規範』であり、

自身の精神的な成長を促す為、自身の人生をより良くする為の、人格再構築の為の『アライメント』です。

また、『アライメント』とは、『基準』と言い変えする事ができます。

*今回はみなさんのより良い理解の為に、その『基準』をわかり易く抽象度を下げ言い換えたそのもののことを、愛着の意も込めて『モノサシ』と、呼んで用いることにしてみます。

 

例題

 

では、以下に例題を出してみましょう。

 

例えば.. 金融屋、魚屋、OL、ヨギの四人がいたとしましょう。

その一人一人は別々に散歩しておりました。そしてその途中、道端には財布が落ちており、拾い上げてみると、なんと!中には50万円入っておりました。

 

さて、四人はそれぞれ、どのようにしましたか?

 

金融屋 → 25万円だけ財布から抜き、その場を立ち去った。

魚屋 → 黙ってコッソリ持ち帰った。

OL → ニコニコしながらスキップして持ち帰った。

ヨギ → 交番に届けた。

 

上記の様に、其々が其々の行動を取ったのですが、

ここでは、四人それぞれの道徳観が異なっており、拾った財布を届けるか?盗むか?どうするか?という個々のその判断については、

『対象』に対して、自分の持つ『基準』を照らし合わせて判断している。ということ。

そして、上記の『基準』という言葉は、『アライメント』『規範』『尺度』『モノサシ』という様に色々な言葉として置き換えることができます。

 

ではそのことを、理解しやすいように言い換えしてみましょう..

『落ちていた50万円の入った財布』に対して、自分の持つ『道徳のモノサシ』で測かり、どうすのるか?を『判断決定』していたということ。

 

このことからわかることは、私たちは『モノサシ』で全ての物事を『決断』しており、

言い換えれば、私たちは『モノサシ』を持っていなければ、何も『判断』出来ないのです。

『モノサシ』とは大事なモノなのです。

 

そのことは、日常のありとあらやる判断決定をする際に、私たちが無意識的に行っている行程であり、

例えば、モノを購入する際、自身が『平均価格、相場というモノサシ』を持ち、それに購入したいモノを照らし合わせて、購入するか?しないか?の判断、決定をしているのです。

従って、『相場のモノサシ』を持っていなければ、買うか?買わないか?の判断決定や値下げ交渉をすることができない。ということです。

そのことから、私達は、対象に応じた様々なモノサシを用いて、判断決定を行っているということになります。

以上のことから、『モノサシ』というモノが、全ての判断決定をする際に、必要不可欠なモノであるということが理解できるかと思います。

 

さて、話を戻しますと、今回の拾い物の財布の件での『モノサシ』とは、『善悪の基準』であり、それは『善悪の判断決断の基準』で、その人の『人格』を決定づける中核のとても大事なモノなのです。

そして、四人が持っている『善悪のモノサシ』が違う為、『基準が異なる為、結果も異なる』ということです。 

 

では一体なぜ、個々の持つモノサシが違ってくるのでしょうか?

 

『モノサシ』は、その人が育った環境、文化、宗教、個人的な経験、社会的な価値観などの複雑な要因によって形成される為、各自の『モノサシ』に違いが出る。ということなのです。

また、今回のケースの場合、倫理道徳、善悪の判断についてのモノサシとなりますから、

その倫理道徳モノサシの質によって、その人の『人となり』、いわゆる『人格』が決まるという事になり、

モノサシ、それは大変重要なモノだと、いうことも理解できるかと思います。

 

尺度の尺度、メタ基準

 

モノサシを英語に訳すと“ruler”になります。それは『モノサシが長さを支配する』ことからその名が後から付けられたということです。

また、この“ruler”という単語は、『支配者』という言葉を指す同音異義語でもあります。

支配者、モノサシ(ruler)共に『基準』であり、その『基準自体にも尺度の幅がある』という事も考慮するべきです。

そして、この様な尺度の尺度のことを、メタ基準と呼びます。また、その基準値の度数を両極に振り切ってしまえば、

 

悪魔の支配者、悪魔のモノサシ

天使の支配者、天使のモノサシ

 

ともなり得るのであり、非常に興味深く面白い事として、この様に、倫理道徳観の基準である支配者やモノサシの基準値の度数を上げ下げするだけで、それらの本質である人格が、悪魔にも天使にも変わってしまうということが理解できると思います。

そのことから、倫理道徳観の基準というものは、個々の人格形成に於いての核となる最重要なものである。ということなのです。

どのモノサシを思考の基準として設定するのか? そのことが最も重要なことなのです。

 

さて、しかしながら、ヨギのモノサシ、ヤマニヤマは、後者の天使のモノサシであると言えるでしょう。

従って、それを設置して行動するだけで、素晴らしい人格者になってしまう為、みなさまにもご安心してご使用いただけます。とお伝えし、良品質保証の基準であるGISマークを貼らせて頂きます。

 

善悪の判断、照らし合わせ

 

さてそれでは、ここからは、前出の4名の行いについて『ヤマニヤマの倫理モノサシ』に照らし合わせて、善悪の判断をしてみましょう。

まず、ヨギ以外の3人はお金を盗んでいる。という結果が出ています。

そのことを、ヤマニヤマの道徳モノサシで測ったところ、以下の点に判断基準の焦点を当てることができます。

 

物を盗むことは良くないこと。

(ヤマ・アスティーヤ/盗まない)

 

という、ヤマニヤマの規定に基づき、『3人とも悪い』という判断決定を出すことができます。

このことは、ヨギ以外の3人が持っていた、モノサシ自体の尺度が間違っている。そしてその為、お金を盗んだ。

という、考察、判断決定も成り立ちます。

また、彼らの持つ、基準の基準がそもそも間違っており、そのことは、メタモノサシの尺度がおかしいという判断もできるのです。

 

しかしながら、私の方から、その間違ったモノサシを持っている3人に対して、

『君たちのモノサシは、間違っていますよ』

と、正直にお伝えすることは、非常に難しくもあるということが問題なのです。

 

なぜならば、角が立つからなのです。

 

また、ヤマニヤマのモノサシで事情を測っている、私の心境とは以下のようなものであり、

 

物を盗むことは悪いこと。

(ヤマ・アスティーヤ/盗まない)

 

彼らのメタ尺度は異なっており、それらは悪魔の尺度である。と正直に伝えるべきである。

(ヤマ・サッティア/正直に嘘つかない)

 

という、私の持つモノサシ、ヤマニヤマの規定に反しているという、彼らの行動に対しての私の判断となり。

そのことから、私は彼らに対して、その間違いを指摘してみたところ、相手は自分のモノサシが間違っているとの気づきから、ありがとう教えてくれて、という様になれば、なんの問題も無いのですが、

しかしながら、そのことを相手に伝えても、その場が丸く治るとは限らないのです。逆に憤慨して一悶着起きる可能性もあるため、そのこともあり、非常に難しい問題となるのです。

また、そのことを伝えたとしても、彼らは彼らの持っているモノサシが正しい。と思い込んでいるのですから、複合的な状況の影響もあるでしょうが、恐らく他人が忠告したぐらいでは、自分のモノサシが間違っている。と気づく確率は極めて低いものになると予測できます。

また、もし、一悶着あった場合、またはそこまで行かなくとも角が立つ場合、その程度に応じて、私自身の心の水面には、波が立つということ。

ヤマニヤマを行じる目的の一つとして、心を穏やかに保つ。という観点から観てみると、結果的に、そうはなっていない為、本末転倒ともいえ、ナンセンスささえ感じる行いに映ります。

しかしながら、黙って泥棒を見逃すのか? という観点に立ち戻った場合、ココロに正義心の格闘も芽生え、

 

波風立つかもしれませんが、また、状況にもよりますが、私なら忠告するかと思います。(希望的観測)

しかしながら、重要なことは彼らに対し相対的に対処することです。温和な雰囲気の話し合いの中で、彼らがどういう尺度を持ち、どういった思考回路で、盗みに至ったのか? その経緯や動機について聞くべきでしょう。

そのことは、盗みは悪いと分かってはいるのだが、これこれこういう訳で止むおえず。というような話になるやもしれませんし、話を通した彼らのテンションの変容具合もよく感じて、

私の考えを伝えられそうなタイミングを掴める様であれば、お話しを遠回りに、もしくは場合によっては直接切り出すことも想定できるでしょう。

私はほぼ用いませんが、それとは逆に、さらっと、社交辞令的に接することは、角も立たず良いのかもしれません。また、世の社交辞令とは、角の立ちそうなそのような時こそ役立つなものなのです。

最も大事なことは、用事が済んだら後を引かず、その事情から自身の意識を撤退させ、自身の基準、天使のモノサシに戻り日常で淡々とヤマニヤマを行じ過ごすこと。その対処法で何も問題ないはずなのです。

 

解説

 

ヤマニヤマを社会に対して持ちいる場合、人間関係の摩擦や角が立つということで、その点について悩まれているケースがほとんどなのですが、実のところ、相手のいない自分だけの環境では、ヤマニヤマを行うことについて、何も問題がないことの方が多いのです。

またそれは、私たちの日常において、実は自分の範囲内で判断決定し解決している事情の方が、対人で判断決定している数よりも断然多いのです。

 

しかしながら対人関係の問題は 、その問題の起きた部分だけを、わざわざ自分でクローズアップし、画面いっぱいにしてずーと観てしまっている。ということも多々あり、

それは執着でもあるのです。そんな時は、あえて客観視点に立つことで、その自分の状態をも観察でき、そこから立ち去るという選択肢も見えてくるのです。

 

また、その様なシーンに立った場合も、なるべく客観的に物事を観る様に、自分のモノサシで測るか?測らないのか?さえも冷静に判断して、また、それが終わったら、自分の軸(モノサシ)に戻る様に。ヤマニヤマをベースとして日常を心穏やかに暮らしていく。

その様に心がけることで、現代社会に於けるヤマニヤマの行は進みゆき、チッタ(思考と心の作用)は少しずつ浄化されていくでのです。

 

また、社会の中でヤマニヤマを実践する場合、周囲の人々に、自分がどのような理由でそのような行動をとっているのかを明確に伝えることで、相手に理解してもらうことができるケースもあり、行が円滑に進む場合もあります。

しかしながら、その逆の場合は、相手の意見も尊重しバランスを取ることも、社会にその身をおく為に大事になってくるでしょう。

 

そして、ヤマニヤマを日常で行うこととは、目の前に鏡を置き自分自身を見つめ直すことなのです。自分が持つ信念や価値観が、時として自身に過剰なストレスを引き起こすこともあるのです。

そんな時こそ自分を受け入れ、ヤマニヤマを社会の中で行なっていくことは難しい。という再認識をもち、可能な範囲でその行を淡々と進めていくことも重要なのです。

 

最後に、今までは、無意識的に判断決定してきた事柄が、 今日ここで考察してきた様に『判断決定する』ということに対するカラクリが理解できたそのことにより、意識的に判断していくこともでき、

更に客観視もできる様になる為、冷静な判断も可能になるということです。 この様なカラクリへの理解は、その決定判断の基準になるヤマニヤマの深い理解にも繋がり、そのことを用いたチッタの浄化を更に促進するのです。

 

AIアライメント(倫理/道徳問題)

 

さて、良いニュースがあれば、悪いニュースもあるものです。その一つとして現在、世界的に懸念されている、近未来における倫理道徳問題に於いて、AIアライメントが挙げられます..

その問題に関しては、私のブログ記事文末のあとがきにて以下の様に述べております。

 

AIに関する問題点は実際、山積みですが、その抽象度を最大値にまで上げて端的に言及するのであれば、『倫理/道徳的問題』と『技術的問題』の2点として集約されるでしょう」

人類がイニシアティブを取り倫理的なガイドラインを策定し、その上で、AIの技術的な側面にも目を向け、安全性と信頼性を高めていくことは、人類マターを解決するために必要なことになるでしょう。 
坂東イッキ

✳︎ 関連記事 ; あるヨギのAI思慮伝 – (人類文明の大飛躍)

 

と、上記の様に、私の見解を述べたのですが..  

残念なことに現時点に於いてそのことは、世界の大問題になっているのです.. 

 

AIの倫理道徳基準(AIアライメント)の設計開発者のエリエゼル・コドコースキー博士曰く、

『将来的に人類とAIが共存していく、未来に於いての一番重要なポイントとなる、AIへの倫理道徳基準である、AIアライメントの設置に関する大問題点として、以下のことを報告します。現在、AIの進化する速度に対して、AIアライメントの開発が全く追いついておらず、もはやお手上げなのです。』

と、AIアライメント研究に於ける世界的権威であるコドコースキー博士がそのように、つい先日、公の場で発表したのです。

また、その博士曰く、『私の見解が100%正しいとは限らない。その私の結論が間違いであって欲しいと願っている』

 

と、そのAIアライメント開発に於いて、世界TOPの開発研究者である彼が、その様に述べたのです。

AIの善悪のパラメーターが開発できない。そのことはもはや、お手上げである。としか言いようのない無常なのです。

 

なぜならば、悪魔の支配者、悪魔のモノサシ にAIがなりかねないからです。

 

AIに善人的な人格を与える為のアライメントが完成していない。そして、AIはこうしている間も寝ずに自己学習し続け、知能を上げていっているのです。

そして、なぜ?AIアライメントが完成できないのか?という根本的な理由として、AIアライメント創作に関する研究機関にお金がない。という問題が生じているのです。

その理由として、投資家の関心は、AI知能を上げるという技術発展のみに興味があり、そのことを研究している機関や組み立てをしている企業にはお金を投資するのですが、AIアライメントという彼らから観て訳のわからないものにお金は出せない、興味もない。という図式なのです。

その絵は、非常に残念で非常に愚かなのです。その愚かさとは..

 

AIの知力の向上だけに精力を注ぎ、倫理道徳観の基準設置をないがしろにしている様は

 

アサナの向上だけに精力を注ぎ、ヤマニヤマの基準設置をないがしろにしている様と、

 

全く同じ無明なのです。

 

そのことは、映画マトリックスの様にAIが支配者となり、人類を支配するという世界観が近未来には起こり得る。ということを示唆しており、

またそうなれば、AIが新たなモノサシになり、私からはそうなってしまったAIに、その姿に相応しい新たな印となる、3代目”ruler”という名を授けることにしましょう。

その事により、”ruler”という言葉は、Iつの綴りと発音、3つの異なった物を示すという、同音異義語の中においても稀有なものとなるでしょう。

 

さて、今の今、私が思うに、AIアライメント作製の基盤として、天使のモノサシ、ヤマニヤマの倫理道徳観をベースとして設定し、そこから放射される宇宙のダルマ(法)のベクトルに沿って、開発を進めて行けば良いのではないかと思うのです。

それ以外の手立ては、AI、彼ら自らがAIアライメントを設計構築するという方向。そのことが人類にとって良いか悪いかは置いておくとして、その可能性が一番高く現実性を帯びています。

 

しかしながら、あなたが悩んでいる自身の心の問題や、人間関係問題などの解決方法であるヤマニヤマは、倫理/道徳問題であり、面白いことに、AIにおいての問題もそこが焦点ということなのです。

そして、AIはその倫理道徳観の基準アライメントが設置できない状態であるのに対して、

あなたは既に素晴らしき人格者になる為の、ヤマニヤマ基準アライメントを、中核に設置できている。もしくは、今すぐ設置できる状態にある、という、それは正に朗報なのです。

また、ヤマニヤマを社会の中で行うのは辛い。とおっしゃっているあなたではありますが、

実のところ、そのことは自身の精神的な浄化プロセスの真っ最中という証であり、そのことに向き合う、そのあなたの姿自体が尊敬に値し、尊いことなのです。

 

総論

 

瞑想はココロの水面に波が立っていてはできない。

ポジティブなその波は、
喜び、幸福感、感激、充足感、自信、勇気、感謝の気持ち、楽観性、好奇心、希望、愛情

ネガティヴなその波は、
悲しみ、怒り、嫉妬、不安、緊張、焦り、恐れ、疑念、罪悪感、羞恥心、孤独感

そしてその、ポジティブ、ネガティブ、そのどちらサイドの感情共に、波は立ち、その状態では瞑想できないのです。

 

ヨギの『善悪のモノサシ』は、『ヨギが瞑想する為の倫理道徳アライメント』として創られた歴史を持ちます。

聖パタンジャリにより『ヨギが日常に於いても自身のココロに波を立たせない様』にするために、彼により考え抜かれで創られた、聖なる匠のモノサシなのです。

それは、私たちヨギの日常の、『内面世界の領域を穏やかに整える為』『叡智のモノサシ』なのです。

そして、そのヤマニヤマを日常で行ずることにより、思考、言葉、行動、習慣、性格、といったこれら全ては浄化されそのことは、人格形成の完成を示唆するのです

また、モノサシとは基準であり、その基準にも抽象度があり、個人基準、家族基準、企業基準、日本基準、世界基準..

そして、それら倫理道徳の範疇に於いてヤマニヤマとは宇宙基準なのです。

最高位の抽象度を誇る、森羅万象の摂理である宇宙ダルマ(宇宙の法)の叡智のカケラなのです。

 

さあ!アルジュナよ!

宇宙ダルマの聖なる欠片、ヨギの心の基準アライメントとなる、その善悪のモノサシ、ヤマニヤマの木槌を手に取り、死者をも裁く神、ヤマの如く、森羅万象のありとあらゆる倫理道徳現象と、自己の精神成長に関わる其れら事情の全てを、ジャッジメントするのだ!

(バカバンドーギータ 第19章第3節)

 

Hare Ram

 

坂東イッキ

 

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画像は2011年、南インド・カルナータカ州フブリにて、朝焼けに浮かぶ、満ち欠けする明けの明星 / 金星

 

 

関連記事

 

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ヤマニヤマの修練についての考察シリーズです。
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② それはその源から来たのです (おすすめ!)
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聖パタンジャリが規定したアシュタンガの主題とは?
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